小さな勇気【アーティストインタビューVol.9藤原キョウスケ】
シンガー兼小説家。
表現としての二足の草鞋を履くキョウスケさんにお話を伺いました。
キョウスケさんに大きな影響を与えた2冊の本にも注目です。
「自分の音楽には自信があった」
キョウスケさんは三人兄弟の末っ子として生まれました。
歳が7つ離れた一番上の兄は、文化祭などでバンドをやっており、そんな兄の姿に憧れていたと言います。
そして小6の時、そのお兄さんが殆ど使わずに押入れにしまっていたエレキギターを、譲り受けました。
「当時は、文化祭のステージに立つのが目標でした」
高校生になって、15歳の時に作詞作曲を始めたキョウスケさん。
中学の仲間でオリジナルバンドを組み、高校3年間を音楽活動に費やしました。
「当時はリードギターだったので、歌はまだ、歌っていませんでした」
キョウスケさんは高校を卒業した後、大学進学のため神奈川県に移住。
大学のサークルでは、軽音楽研究会に所属し、コピーバンドを組んでいたそう。
「ここでやっと、歌も歌うようになりました。コピーバンドだったのでオリジナル曲は歌えず、けれど、家でひっそりと自分の曲を書き溜めていました」
大学卒業を機に、エレキからアコースティックギターに持ち替えたキョウスケさんは、月に2~3回ほどのライブをしながら、youtubeへの弾き語り動画の投稿するなど、本格的に音楽活動をスタートさせました。
「自分の音楽には自信がありました。けれど恥ずかしかったので、周りは言えなかったです。ただ、決め手は音楽に対する自信でした」
周りは就職という安定を選ぶ中、キョウスケさんは音楽という不安定な道を選びました。
それには、小さな勇気が必要だったかもしれません。
「自信」が、そっと背中を押してくれたようです。
それから2年半が過ぎた24歳の途中、キョウスケさんはメンタルをやられてしまい、地元に帰省することに。
半年間、カウセリングにも通ったそう。
そこは薬などには頼らない、対話を通して治していく療法でした。
「先生に『小説を書いてみたら』と言われたんです。自分も書いてみようかなと思いました」
そして3ヶ月間ほどで小説「ひきだし」を書き下ろしました。
音楽よりも、小説の方がダイレクトに、そして論理的に伝えられます。
こうしてキョウスケさんは、「シンガー兼小説家」となりました。
27歳の時、音楽と執筆の活動を一旦休止し、好きな事を続けて行く為にも、ビルメンテナンスになる為の資格を取ったキョウスケさん。
そして、今後の音活動の為にも関東での就職を決めました。
29歳、キョウスケさんは再び音楽活動をスタートさせました。
自己満足
音楽とは「自分の中の、生きていく上での大きな部分」であるキョウスケさんに、曲作りについて伺いました。
「自分の中で、作るものは変わっていきます。その時に作りたいもの作る。自己満足が大事だと思います」
一般的に、悪い文脈で使われる事の多い「自己満足」という言葉ですが、キョウスケさんは、それこそが大切であると語ります。
「自分が満足して作るのは、難しいんです。自分を満足させる様な音楽。本当の意味での自己満足ですね」
満足にこだわるからこそ、レコーディングでは時間がかかってしまうそう。
しかし、キョウスケさんはそれを「努力」ではなく、「ハマっている」と、表現してくれました。
「楽しくないと続かないですよね」
アルバム「もう2度と笑ってくれない気がして」
このアルバムに収録された「少年」という曲。
この曲は、キョウスケさんが22、23歳の時に書いた歌です。
「この曲は、今ではもう書けないですね。『ライ麦畑でつかまえて』という小説からインスピレーションを受けました」
「ライ麦畑でつかまえて」とは、1951年にアメリカで出版された青春小説です。
キョウスケさんは、持ち歩く程、この本が好きだったんだそう。
「この小説の主人公をイメージして書きました」
大人に対する疑念、不満。
思春期の誰もが経験するそんな感情を、当時のキョウスケさんは歌にしました。
もしかしたら、自身もそれと同様の想いを感じていたのかもしれません。
「真面目すぎる性格ではありました」
世の中に対して、真っ向から仁王立ちする様な真面目さ。
その純粋な真面目さは時に、自分に負荷をかける事にもなってしまいます。
そしてこのアルバムに収録されている曲の中には、「汚れる」という言葉が登場します。
キョウスケさんにとって「汚れる」とは、どういう事なのでしょうか。
「これも30歳になった今では書けないですね。僕は昔から、誰に対しても真っ直ぐな、真面目タイプでした。それが自分の個性だと思っていました」
卑しさを嫌い、それらに対して敏感に反応する。
しかし、26歳の時にとある本と出会います。
「その本を読んで、自分はただ『人と違う存在になりたかった』だけなんだなと思いました。自分にとってのアイデンティティーが、『純粋であること』だったんです。『特別でありたい』という気持ちだったと気づいたんです。なんだ、自分も卑しいじゃないかと気付きました」
そうして「汚れる」という感覚は、キョウスケさんの中でなくなっていったようです。
その本の名前は、「嫌われる勇気」。
この本は、アドラー心理学のわかりやすい入門書で、ベストセラーとなりました。
このアルバムで伝えたい事は何ですか?と尋ねると。
「小さい勇気を積み重ねていくことが、大切だという事です。人生の節目、節目では勇気が必要ですから」
そして、キョウスケさんは、病んでしまったあの頃を、振り返ります。
嫌われる勇気
「 26歳で『嫌われる勇気』と出会って色んな事に気付きました。僕は勇気を出す事から逃げていました。小さい勇気を出すとはハードルが高い事ではなくて、目の前の小さなことでも良いんです。小さな勇気を積み重ねていく」
勇気を挫かれてしまった24歳の時。
当時のキョウスケさんは、まだこの勇気が何なのか、まだ分からなかったのかもしれません。
「ちょっとずつ病んでいきました。けれど、現実的な対処をしようとしなかったです。病むことを必要としていたのかもしれません」
赤の他人に己の深い部分をさらけ出すには、勇気が必要です。
小さな勇気が、そっと背中を押したようです。
「自覚なかったけれど、今から考えると、病んでる方が魅力的と思っていたのかも。無意識に。大切なのは、病むのを手放すこと。小さな勇気を出して、病むことを手放していく」
例え誹謗中傷を受けたとしても、軽く受け流す。
小さな勇気を持って。
そして、「病む」ことに頼らない。
キョウスケさんは私達に、「小さな勇気を持つ事の大切さ」を教えてくれました。
そんなキョウスケさんの夢は、
「世界中を旅して、その途中でお客さんにも会って、気に入った所に永住したいですね」
キョウスケさんはこれからも、小さな勇気で夢へと向かって行きます。
その姿は、私達の臆病な背中を、そっと押してくれます。
震える音楽を【アーティストインタビューVol.8ヤマモトダイ】
今回インタビューを受けて下さったのは、バンド「アシタカラー」のヤマモトダイさん!
一番好きなバンドが「クイーン」だというダイさんの、その音楽に対する想いと、情熱について、お伺いしました。
バンドの解散、そして結成
「父親が、子供に音楽を習わせたかったという事もあり、5歳の時にクラシックピアノを始めました。それが音楽との初めての出会いでした」
親御さんの影響で、幼少から音楽に触れていたというダイさん。
高校生の時は、「ぼやぼやとミュージシャンになりたいなー」と思っていたそう。
「クラスでは、あまり目立つようなタイプではなかったです。自分を認めて欲しいという欲求と、可愛い子にモテたいという気持ちがありました(笑)」
可愛い子にモテたい・・・。とても正直に語って頂きました。
ダイさんの歌声を聴いたら、どんな子でも惹かれてしまうでしょう。
「やっぱり、歌う事が好きです。緊張して女の子と話せず、電話でも沈黙が1分間とか(笑)。でも、カラオケだと緊張せずに歌えたんです」
ダイさんの可愛い一面を垣間見えたような気がします。
それでもやはり、音楽の中では緊張せずに自分を出せたようです。
「大学生の時は、上京していて、ストリートライブをやってみたいという気持ちがありました。すると、大学での隣の席の奴がたまたまストリートライブをやっていたんです。アコースティックギターも、この頃に買いました」
ストリートライブはやはり、大変な勇気が必要なはず。
しかしその分、楽しい事も多いと言います。
「立ち止まってくれる人達との交流は、ライブをやっていく中での楽しみです」
そんなダイさんは、いつ頃から音楽の道で生きようと決心したのでしょうか。
「就職活動は、人生経験としてやってみようと思いました。けれど、就職してから音楽活動を始めるのだと、遅いのかなと、当時は思いました。就活によって、音楽活動への希望がより強まりました」
大学卒業時には、決意を固めていたというダイさん。
そして、上京してきた友達と、インターネットでメンバー募集して知り合った計4人でバンドを組み、音楽活動をスタートさせました。
大学卒業してから2年後、紆余曲折を経てそのバンドは3人になっていました。
その上、同じく大学進学を機に上京していたバンドのメンバーの一人が病気になってしまい、そのまま地元に帰ってしまいました。
「大切な大学の仲間だったんです。2人残って活動を続けるという道もあるけど、結局やめようとなりました。その後は一年くらい、音楽活動から離れていました」
それでもどこか諦め切れなかったダイさんは、当時をこう振り返ります。
「バンド解散する時、できていた曲がありました。だんだん曲ができ始めている途中だったんです。自分の可能性を捨てれなかった。やり切ってなかったなというか。自分が作る曲の可能性を、じわじわと感じていました」
ダイさんは、「やっぱりやりたい」と思ったそう。
別れがあれば、出会いもある。
それはまるで「魔法」の様に、繋がっていきます。
「その解散したバンドで、サポートベースをやってくれていた人に連絡を取ってみました。丁度、その人もバンドを辞めていたので、『一緒にやろう』となりました」
そうして、現在に繋がるバンド「アシタカラー」が結成されました。
どんな道であれ、振り返れば雨上がりに虹がかかっているのだと、ダイさんは教えてくれます。
アシタカラー
「当時、横文字のバンドが多かったので、バンドの名前はひらがなやカタカナにしたいなと思いました。そして、『アシタカラー』というどこにもない言葉にしました」
「アシタカラー」は、日常に溶け込むような言葉という意味なのだそう。
「『明日から始めてもいいよ』『明日からじゃなくて、今日からでもいいんだよ』と、いろんな見方でこの名前の意味を捉えてほしい。一つの意味に限定してしまうのではなく、各々の見方に任せたいです」
以前のバンドでは、切ない曲をよく歌っていたというダイさん。
けれども今のバンドでは、明るい曲を歌いたいと語ります。
「切ない曲を、何十年も歌い続けられないなと思いました。今は、バラードで泣かせるよりも、楽しませたい。もっと、アップテンポの曲を歌いたい。5、60代になっても楽しく演奏していたいです」
「アシタカラー」の曲に元気づけられ、私達も明日から、または今日から、一歩を踏み出せそうな気がします。
震える音楽を
「曲を作る時には、自分がその曲で震えるかどうかを意識しています。自分の心が動いてないなら、それは作品じゃないと思います」
曲によって心を動かす。
それは、商業的な音楽ではなし得ない、芸術の領域です。
しかし、そうした道を進むには只ならぬ勇気が必要なはず。
「売れる曲を書こうという風潮もあるけど、自分が震えていなかったら、やっぱりダメだと思います」
ダイさんは、音楽に対するその熱い気持ちを続けます。
「例え流行歌じゃなくても、自分が震えてるのなら、他にも震えてくれる人がいるはず」
自分が震える曲を出していく。
自分がいいと思うものを貫く。
そしてそれは、必ず誰かに届きます。
「流行に乗ってしまうと、流行は作れない」
ダイさんのその言葉は、ついつい逸れた方向へ行きがちな私達への、重要なメッセージでもあります。
魚にだって、その流れに逆らってでも自分を貫かなくてはならない時が、きっとあるはず。
「流行にただ乗るのは、精神の衛生面上もよくない。自分の好きなものを世の中にフィットさせていく方が精神衛生上いいと思う。表現においては、自分の作りたいものを作る」
本当に素晴らしいお言葉を頂戴しました。
売れる曲を作ったとしても、自分が納得していなければそれは、自分にとって負荷となり得ます。
ダイさんは、一体いつからこの様に自分の音楽を貫こうと思い至ったのでしょうか?
「実は30代に入ってから、やっとそう思うようになったんです(笑)。周りのみんなはやっぱり、流行りの曲を作ろうという会話が出てきます。ライブなどで共演すると、みんな同じ音楽をやっていたりだとか。それだと、誰がやっても同じになってしまうんですよね」
皆んな同じ事をやっていたんでは、代替可能のアーティストになってしまう。
ダイさんが目指すのは、唯一無二のアーティスト。
その生き様が人の心を震わせた「クイーン」の様に。
「それに気づいてからは、自分が震える音楽を作るようにしています」
音楽結成当初、周りからは「こういう音楽の方が売れるよ」と言われ、軸がブレることもあったのだそう。
けれど、そういうブレてしまった時期があるからこそ、今の軸があるんだと、ダイさんは語ります。
「自分に嘘ついてないから、やりがいがある。自分を貫きつつも、世の中にフィットするように。それは、勇気がいる事でもありますね」
その勇気はやはり、音楽に対する圧倒的な熱量から生じるのでしょう。
では、ダイさんにとって音楽とは何なのでしょうか。
「音楽ってやっぱり凄い!」
迷いなく、勢いよくそう答えてくれました。
「音楽は、宗教色が強いと思います。漫画とか、映画とかは、人間が創り出したモノだけれど、音は人間がいる前からありました。共通言語にすらなります」
音楽とは、「人間を超越した不思議なもの」であるからこそ、人の心を動かす事が出来るのだなと、納得しました。
素っ裸になれるる場所
「ライブは素っ裸にれる場所です。自分の生きてきた積み重ねが、全部バレてしまいますね。厳しい場所だけど、楽しい場所でもあります」
ファンの方々にも堂々と素っ裸になれる様にと、ダイさんは日常生活から気を遣っている様子。
そんなダイさんにとってファンとは、「自分が音楽をする上で、なくてはならない存在」と教えてくれました。
加えて、音楽に挑戦できる理由でもあるのだそう。
そして音楽と自分について、独特な考えをお持ちです。
「僕が作った音楽を好きになってくれるファンは、凄いなと思うんですよね。音楽という、自分が作ったものだけど、自分から離れているものを好きになってくれるって、凄いなと」
「自分が作ったものだけど、自分が離れているもの」とは、どういう意味なのでしょうか。
「曲を作り終えると、その曲を自分が作ったとを信じられないんです。そこでも、『この曲は自分だけの力では作ってないんだよなー』と感じます」
曲には他人感がある。
そこには、曲が成立するまでに関わってくれた人達、そしてそれを聞いてくれるファンの人達への、感謝の気持ちが含まれているのでしょう。
「なかなかの頻度で落ち込みますね」
「創作活動は骨の折れる作業。特に宣伝活動とか、音楽活動以外の所は大変です。曲を作る事は好きだけど、それ以外は苦手だってアーティストは多いですね」
曲は、人と人とがぶつかることろで生まれる。
音楽以外の活動は、苦労するけど新しい感覚でもあるのだと、教えてくれました。
「そこもなるべく楽しみたいんですよね。全て自分のやりたいように出来るので」
全て自分でやる事で、業者の人達の気持ちもわかるようになったのだそう。
「僕は自分でできること事は、自分でやった方がいいかなと思います」
これは、音楽以外の活動で悩んでいる、苦労しているアーティストにとって、参考になる言葉だと思います。
しかしそんなダイさんでも、落ち込んでしまう事が頻繁にあるようです。
「CDが売れなかったり、自信のあった新曲の反応な少なかったりとかで、落ち込んでしまいます。凄い曲を聴いて、落ち込んでしまう事もあります。なかなかの頻度で落ち込みますね(笑)」
日常的に落ち込んでしまう事が多いのだそう。
しかし、それは妥協した道を歩んでいない証拠でもあります。
「楽しい事をするなら、楽をしちゃダメだよ。だからこそ、落ち込むし、楽しめるんだ」
その言葉が、熱く、胸に響きました。
そしてダイさんの夢は、「Zepp Tokyoでライブをする」こと。
夢を追う道のりでは、様々な苦難があります。
しかも楽な道ではなく、自分を貫き続けるという茨(いばら)の道。
自らの軸を疑ってしまう事や、落ち込んでしまう事が、あるかもしれません。
自分の信条とは異なる、ただ流行に乗った歌を歌う人が、抜き去っていくかもしれません。
けれども、自分の軸を信じ、自分や他人を震わせ続けた先には、きっと夢が待っているはず。
その夢に到達した時、ダイさんは、私達は、こう歌うのでしょう。
音楽という居場所【アーティストインタビューVol.7谷直哉】
今回インタビューを受けて下さったのは、谷直哉さん!
「純粋に、あいつのインタビュー記事を読んでみたい(笑)」
と、以前インタビューさせて頂いた大木大地さんに、ご紹介頂きました。
直哉さんの谷あり山ありの現在までを、追っていきます。
「お客さんとの掛け合いに惹かれた」
「美術系の高校に通っていました。最初は自分も、美術系の分野に進むのかなーと思っていました」
しかし、実際に多くのクラスメイトが美術系の分野に進む中、直哉さんには漠然とした気持ちが浮かびました。
「美術以外の分野に進もうかな」
漠然とした道に進む、それは新しい自分の可能性を見つける旅路でもあります。
ここではない居場所を求めて。
そして高校卒業後、直哉さんはカラオケで歌と出会いました。
「緊張しいの性格もあってか、歌を上手く歌えなかったんです。その時の『うまくなってやろう』という悔しさから始まりました。弾き語りを始めたのは、近所の人にギターを譲ってもらってからです」
悔しさをバネに、ギターを練習し、ボイトレにも通ったという直哉さん。
そしてこの頃から、ライブハウスにも行き始めるようになりました。
「知り合いのライブハウスにお客さんとして行った20歳の頃、大地さんと出会いました。地元が一緒で、歳が近い事もあり、すぐに意気投合しました。大地さんとは、カラオケとかで遊ぶようになりました(笑)」
楽しそうな口調から、その仲の良さが伺えます。
相思相愛でしょうか。
初めはお客さんという立場でしたが、やがてステージ上に立つようになった直哉さん。
「最初のライブでは、全てカバーを歌いました。その時、お客さんとの掛け合いに惹かれたんです。自分のやっている事が、ちゃんと伝わっているんだなと。自分の思いを届けたい」
このお客さんの反応がキッカケで直哉さんは、本格的に作詞作曲を始めました。
「最初は聞いているばかりで、自分で届けるという事がいまいちパッとしませんでした。でも、やってみるとわかりました」
相手のいないキャッチボールなど、楽しい筈がありません。
ボールが返ってきて初めて、それは表現として成立します。
「今思えば、高校時代からアーティストに対する憧れを持っていたのかな。そこでタネを持っていて、大地さんと出会って、芽が出ました」
23歳の時、大地さんと入れ違いで同じ音楽学校に入った直哉さん。そこから、重い曲を作れるようになったと言います。
「作詞は、そこで基礎を学びました。先生に『綺麗な言葉が並びすぎて、リアルさがない』と言われてしまいました。その言葉が、いい意味でグサっときたんです」
人間の汚さ、生々しさ、そういった決して綺麗ではない詞の方が、聴く人のより深い核の部分に突き刺さります。
服にこびりついて、まるで取れない血の様なリアルさ。
そういうの詞の方が人間の心を動かします。
「学校で仲間ができたのも嬉しかったです。『自分の表現じゃダメなのかな』という時には、いつも仲間に助けられました。もし、仲間がいなかったら、今ごろ音楽を諦めて違う道に進でいるかも」
自分との向き合い
「初めてのライブが印象に残ってます。やはり、とても緊張しました。緊張で実力が出せなくて、悔しい思いをする事が多いんです。けれど、緊張する事にはそこまで悪いイメージは持ってません。音楽に真剣に向き合ってる証拠だと思ってます」
緊張は真剣である証拠。
しかし、その真剣であるが故に、失敗してしまう事もあるそうです。
「緊張で自分の曲が飛んでしまったりするんです(笑)。そんな時は、無理やりやり過ごします。そこで即興で作ったりして、その場をしのぎますね(笑)」
この話を伺っている時、デジャヴを感じました。
大木大地さんをインタビューした際にも、「ギターの弦が切れても、やり過ごした」というお話がありました。
直哉さんと、大地さんの間には多くの共通点があるようです。
「その即興で作ったメロディーを気に入った時は、次の曲の制作で参考にする事もあります」
転んでもただでは起き上がらないとは、まさにこのこと。
「僕は引っ込み思案なので、自分との向き合いですね。もっと自分の表現をいろんな人に聞いてほしいです。もう27歳なので、周りの同級生は結婚していたり、仕事していたり。分岐点なのかなーとも思います」
人生には様々な選択肢があります。
何を選ぶのが正解なのか、誰にも分かりません。
しかし間違いないのは、日々の感情を曲にして残せるという事が、シンガーソングライターのいい所。
「本音ところは、アーティストとしてやって行きたいという気持ちが隠しきれないです」
絵を描く様に
「音楽は辞めようと思っても、辞めらないですね。自分を表現しておける、人生そのもの、お客さんと共有できるものですね」
直哉さんは、美術系の高校に通ってた事もあり、その画力は折り紙つき。
絵を描く事と、曲を作る事、同じ表現として似ている部分はあるのでしょうか。
「絵を描いている時と、曲を作ってる時では、同じ感覚がしますね。表現という部分で似ています。絵を描く様に、音楽を作っていますね」
絵を描く様に音楽を作る、とても美しい表現です。
直哉さんは、表現という場所に居場所を見つけている様子。
声を喪う
「表現しているものがこれでいいのかな。表現しきれないのかな」
26歳の頃、音楽というよりも、普段の日常生活で、直哉さんの神経は疲れてしまいました。
しかし、誰にも相談出来なかったと言います。
「その時、言葉が出なくなってしまったんです。全く、喋る事が出来なりました」
直哉さんは、声を喪ってしまいました。
まるで、オルゴールの音が急に終わってしまう様に。
そんな事もあり、直哉さんは少し休養を取りました。
「でも、歌っている時にだけ、声が出たんです。歌なら、自分を出せる。歌は歌えました。音楽だけが助けてくれて、音楽の中では自由でした」
音楽という居場所。
その場所で直哉さんは、声を取り戻しました。
そして、その声は想いを紡いでいきます。
「音楽があるからこそ、自分を取り戻せました。歌った後は話せたんです。歌っているイメージを思い出して、段々と話せるようになりました」
声が出ないというもどかしさ、直哉さんはその当時の想いを音楽にぶつけたと言います。
「強い思いが歌詞に表れて、より、リアリティーが出ました。焦って業務的に作っているよりも、何か強い思いがある時の方がスラスラ生まれます。人間の深い部分を出せた時、いい曲になります。そんな曲は、歌っている時にも納得します」
歌詞のリアリティーとは、まさに音楽の専門学校で指摘された事でした。
声が出ないというもどかしい思いが、生々しい曲を作り出しました。
夢
直哉さんの夢は、とお聞きすると、
「聴いてくださる方にとって、自信を持って好きと言っていただけるアーティストになりたいです。また、その先の表現を共有できる空間で、たくさんの方と歌えることができたら凄く幸せなことだなと思います」
と語ってくれました。
声を喪っていたとは、今の夢を語る声からは想像出来ません。
それも、音楽という居場所のお陰なのかも。
声が出ない、いわゆる普通の人達に出来る事が、出来なくなる。
それが、どれ程の恐怖なのか。
インタビュー時、直哉さんは初め、声を喪った事について記事にするのをためらっていました。
それ程、ご自身にとって辛い経験でした。
その声はこれからも、私達に、届いていきます。
弾き語りの魔力【アーティストインタビューVol.6 大木大地】
松丸廉さんのご紹介でインタビューを受けて下さったのは、大木大地さん!
(松丸廉さんは、以前インタビューさせて頂きました)
廉さん曰く、「謎が多い」とのこと。
大地さんって、どういう人だろう・・・
今回はそんな大地さんをご紹介すると共に、その謎に迫っていきます!
弾き語りの力
「カラオケによく行くようになったのは、高校に入ってから。それまでは音楽に触れてもいませんでした」
そこで歌を歌う喜びを知ったという大地さん。
音楽への入り口は、カラオケでした。
「19歳の頃、友達にギターを教えてもらいました。音楽を聞いていくうちに『弾き語りって、ギターと歌だけですごい』と思うようになったんです。自分にも出来ないかな、と思うようになりました」
「弾き語りの力に魅せられました」と、力強く語る大地さん。
弾き語りとは、歌手自ら楽器による伴奏を行いながら歌うこと。
その力によって大地さんは、音楽に引き込まれていきました。
実は、大地さんは医療系の大学を目指して、2浪していました。
現在のイメージからすると、少し意外にも感じます。
大地さんの家系には医療系の職業に就いている方が多く、その影響で、大地さん自身も小さい頃から医療系に進みたいと考えていたそう。
しかし、「医療系の大学」の試験が難しいものであるとは、言うまでもありません。
「結局、試験は全部ダメでした。でも、医療への道をどこか諦めきれませんでした」
19歳から20歳の間、そんな気持ちを抱えながらも、大地さんは父親からギターを譲り受け、そこから本格的に音楽の道を目指し始めました。
音楽の専門学校も受験していた大地さんですが、結局そこには行きませんでした。
「20歳の時、オペ機材を扱う仕事をしていました。弾き語りでやっていきたいなと思いつつも、医療系もやりたいな、と思っていました」
そして2年後、大地さんはかつて受験した専門学校に通う友達と出逢いました。
「運命」という非科学的な用語を用いるならば、それは恐らく「運命の出逢い」とも呼べるしょう。
そこで大地さんは、「2年越しに専門学校に行きたいな」と思ったそうです。
22歳の時、大地さんは以前受験した所とは別の専門学校に行きました。
そこでは週1でオリジナルの楽曲を、プロデューサーとしても活躍していた先生に披露していました。
その楽曲を褒めてもらったり、時には厳しい事を言われたり。
「なんだか不思議な感覚でした。その学校に行くまでは、自分の部屋で一人で音楽をやっていました。そうしたこれまでの何もない環境で作っていたオリジナル曲が、間違いじゃなかったんだなと。その先生との出会いは大きかったです」
それまではほぼ独学で曲を作っていた大地さんですが、指導者と出逢った事で、自分のこれまでを肯定できたようです。
「間違いじゃなかった」という言葉には何か重みを感じました。
そんな素晴らしい環境で、大地さんは音楽のスキルを高めていったようです。
そっと飾り付ける額縁の様に
大地さんが曲作りで意識している事は、
「自分の気持ちを曲に入れています。ありがたい事に聞いて下さる方が居るので、自分だけの曲じゃないと思っています」
自分の曲を聞いてくれるファンの存在は一言でいうと、「エネルギー」だと語ります。
「聞いてくれる人が居なかったら、音楽ではないなとも思ってしまいます。自分が音楽をやる理由を与えてくれる存在で、常に感謝しています」
大地さんはとても謙虚に音楽やファンと向き合っている印象。
その音楽は、尖ったものというより、柔らかく優しいもの。
「自分の曲で人生を変えてくれっというものではないです。ライブに来てくれた方の一人一人の違う1日、そんな1日に自分はそっと飾り付ける額縁の様になりたい」
大地さんの曲は、私達の様々な一日を、例え絶望を感じる様な1日であっても、決して見捨てずに優しく包んでくれます。
「その人なりの感じ方や捉え方で。嫌な日でも、少しでもいい日になりますように」
その声からは、優しさが溢れていました。
音楽というアルバム
「根本の部分には、自分が経験してきたものが作品になっていきます。今日まで生きてきた証ですね」
音楽は、今まで生きてきた証。
辛いことも嬉しことも、それらの経験を音楽へと昇華させていきます。
「曲を見ると、その曲を作った当時の気持ちをアルバムみたいに思い出すんです。今とは全く正反対の事を思ってるなー、とか。ライブで歌っている時に、不思議と、曲を作った当時の気持ちが蘇ってくるんです」
それはまさに音楽というアルバム。
写真や文章、動画とはまた違う、思い出の残し方。
ライブなどで歌を歌う時、そこに居るのはその曲を作った当時の、大地さんです。
なんて美しい、思い出の残し方なのでしょうか。
そんな大地さんの、始めてからまだ2、3回目のライブで経験した、ちょっとした失敗談を聞かせてくれました。
「一曲目でギターの弦が一本切れてしまったんです(笑)。けれど、そのままの状態で2、3曲弾き続けました。『ん、切れてないですよ』という風にすまして。特に初期の頃だったので、ライブって怖いなと思ってしまいました。今でも弦は、きちんと確認します(笑)」
ファンの皆さんも、ライブで大地さんの歌を聞く時には、ギターの弦が切れてないか要チェックです!
仲間の存在
大地さんは専門学校を卒業後しましたが、26歳から1年8ヶ月もの間、長野県の山奥の旅館で働いていました。
これがいわゆる「謎が多い」と言われてしまった原因のようです。
一体何があったのでしょうか。
「2018年のライブでは、お客さんがようやく来てくれるようになりました。けれど、音楽を始めてから5、6年もの間、普段のブッキングライブ(ライブハウスやイベンターと呼ばれる人が企画するライブのこと)では、来てくれるファンは0人という状況が9割でした」
当時の大地さんの心中が、吐息の様に漏れました。
「悩ましかった・・・。楽しさが徐々に減って、ライブの意味もずっと分からずにやっていた。何の為にやっているんだろう」
「聞いてくれる人が居なかったら、音楽ではないな」という先程の大地さんの言葉を、反芻しました。
聞いてくれる人があまり居なかったという当時の大地さんは、自分の音楽に対する意義を見失ってしまいました。
「そういうのもあって、行き先を決めずに旅行へ行ったんです。考えを見直す為にも。もう音楽はやらなくていいんじゃないか、とも思ったり」
その旅行先で、先述した長野県の旅館に辿り着きました。
そこでは、一番近いコンビニへ行くのに50分もかかったそう。
今までの都会での生活とは、程遠いものでした。
「『何でそんな所に行くの?早く戻って来なよ』と周りからは不思議がられました」
それもそのはず。
知り合いが突然田舎の旅館に住み込みで働くと言い出したら、大抵その様な反応がくるでしょう。
けれど、大地さんの意思は固いものでした。
「違った環境に行けて良かったと思います。そういった自然の中にいる時に、作った曲も多いです。なにより、自然の中で歌ったりして気持ちよかった」
大地さんは当時の思い出をそう回顧します。
一見「謎」と捉えられてしまいますが、大地さんにとってそれは貴重な経験でした。
「長野県に居た当時から、松丸廉くんがライブに呼んでくれました。本当にありがたかった」
長野県にいる間でも、ライブに呼んでくれる存在が居ました。
そんな時は年に数回だけも、ライブの為だけに上京したそうです。
松丸廉さんの様な存在は、悩んでいた大地さんにとって大きな支えとなったはず。
どうやって、「その悩ましい」状態を乗り越えましたか、と聞くと、
「乗り越えたというより、周りの人達の肩を借りながら、乗り越えさせて頂いたという感じですね。仲間に助けられました」
その時、大地さんの会話の相手は、もはや私ではなくなっていました。
心を込めて、ただ率直に。
「手を差し伸べてくれて、本当にありがとう」
シンプルな語り
「弾き語りというスタイルで、日本武道館でライブをしてみたい!」
弾き語りという魔力に導かれ、大地さんの夢は日本武道館。
その大きなステージ上で、その魔力をより多くの人に放ちます。
けれど、そのステージ上の大地さんはきっと一人ではないはず。
歌っている曲を作った当時の自分。
ライブに来てくれるファン。
困った時には手を差し伸べてくれる仲間達。
その夢への道のりで、もしまた心の弦が一本切れてしまったとしても、大地さんの仲間達がきっとまた手を差し伸べてくれる事でしょう。
弾き語りであっても、大地さんはもう一人ではないはずですから。
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音楽との葛藤【アーティストインタビューvol.5 井野大雅】
今回インタビューを快諾して下さったのは井野大雅さん!
ビジュアル系?を思わせるその爽やかなお顔立ちが特徴です。
それと同時に、音楽に対する熱い気持ちを持っている方です。
今回は、そんな大雅さんの素顔に迫っていきます。
芸能界への憧れ
「小学校の時、漠然と芸能人になりたいなと思っていました」
テレビに映るキラキラした芸能人達には、憧れを抱くもの。
「テレビに出てみたい」と、誰しも一度は思った事があるのではないでしょうか。
小さい頃の大雅さんも、そんな芸能界に惹きつけられた一人でした。
2010年、「岡本真夜(まよ)」さんというシンガーソングライターのパクリ騒動があり、そのニュースは連日テレビで報道されていました。
当時、中学2年生だった大雅さんはそこで「岡本真夜」さんの存在を知ったそうです。
そのニュースと共に聞いた「岡本真夜」さんの曲がキッカケで、音楽に興味を持ち始めました。
「自分も曲を通して思いを伝えられる人になりたい」
それは大雅さんにとって、萌芽(ほうが)の様な音楽への目覚めでした。
そして、漠然とした思いがハッキリとなった瞬間でもありました。
「それまでは歌を歌うことも嫌いでしたね(笑)」
そのキッカケ以前は音楽が好きどころか、歌う事も嫌いだったという大雅さん。
けれどこのキッカケは、そんな歌嫌いさえも超える程の影響を大雅さんに与えたようです。
「ただ、親の前ではそのまま歌嫌いを装っていました(笑)」
高校時代では、バンドを組んで音楽を練習していたそうです。
もちろん親には隠れて。
「この頃に、音楽で生きていくと決めました。高校卒業後の進路としては、音楽の専門学校に行こうと思っていました」
しかし、資金面の問題でそれは厳しいと判断し、最初の1年間は和歌山県から上京して宅配の仕事をしていたそうです。
それはやはり、芸能という職業とは余りにも遠い職業でした。
「そこでの仕事では、やりがいを感じられませんでした」
それでもお金を貯めた大雅さんは、その後2年間専門学校で音楽のスキルを学んでいました。
「みんなが恋愛をしている中、在学中から路上ライブをしていました。クラスメイトはみんなライバルだと思ってました」
音楽に対する本気度、周りの惰性に流されない強い意志。
人はついつい集団に馴れ合ってしまうものですが、大雅さんはこれらの思いで2年間を充実して過ごしたようです。
「思うがままに来た感じですね。やりたい事しかやってないです(笑)」
それは、誰しもが憧れる生き方。
ファンと本気で向き合う
大雅さんの路上ライブでは、オリジナル曲であっても多くの人が足をとめてくれます。
一般的に、カバー曲は初めましてのファンへの最初のフックとなります。
しかし、なぜ大雅さんは路上でカバー曲をあまり歌わないのでしょうか。
「自分がカバーを歌っても本家は超えられないという苦手意識があります。そして良くも悪くも、自分の世界にはまり込んでしまうんです」
現在、大雅さんは半年間ライブから離れるいわゆる「充電期間」中です。
「充電期間から復活したら、カバー曲も歌いたいですね。恥じないような歌声を届けたいです」と、意気込みを語ってくれました。
その充電前、大雅さんは千葉県の市川市で週に1度、路上ライブを行なっていました。
そこは、上京して仕事を1年間やっていた時に住んでいた場所。
充電前のラストの路上ライブもその場所で行われました。
その時に印象に残った出来事があったと言います。
「中学生の子がわざわざ電車を乗り継いで、路上ライブに来てくれたんです。僕は90年代、80年代の歌が好きで、普段聴いてくれる方も30、40年代の方が多いんです。なので、そうやって中高生が聴いてくれるのは嬉しいです」
自分の為に、お金や時間を使ってくれるのはありがたいもの。
そんなファンの存在は大雅さんにとって、「自分を成長させてくれる証」だと語ります。
「自分は、曲をちゃんと届けられているんだなと感じました。ファンの為に、自分も全力で向かい合いたいです」
その優しい笑顔から、ファンの皆さんに対する感謝の気持ちが伝わってきました。
日常が創作活動
「思った事をそのままスマホのメモ帳に書き留めています。メロディーはボイスメモに録り溜めています。それらを融合していいものを作ろうとしてます」
実際に大雅さんのスマホを見させて頂くと、そのメモ帳やボイスメモにはびっしりと文章や音が、いや、大雅さんの想いが詰まっていました。
「曲を作るのが好きなんだなと思います(笑)。人生の経験がそのまま曲になっています」
そして、大雅さんは音楽を「自分が幸せである為の相棒」と表現します。
「何をしていても、頭から離れないです。ずっと頭の片隅にあります」
まさに日常が創作活動なのだなと感じました。
しかし、そんな相棒といるからこそ、感じてしまう「孤独」があると言います。
地元を離れ、音楽といういわゆるイレギュラーな道に進む。
その道のりは時に、その挑戦者に「孤独」を感じさせてしまいます。
「他の人からすると珍しいと思うんですけど、飲食のバイトに行くと同年代と会えて、リフレッシュになるんです(笑)」
そして、地元で親や友達と会えた時には、特に幸せを感じるそうです。
「こいつと友達でよかったな、この子の親でよかったなと思って貰える様な人になりたいですね」
その熱い気持ちだけでも既に、私達は大雅さんのファンでよかったと思わせてくれます。
音楽との葛藤
「最初の頃、自分ってアイドルをやっているのかな。自分は一体何をしているんだという気持ちになっていました」
大雅さんは、同性から見ても爽やかなお顔立ちをされています。
しかし当初それは、逆に大雅さんを悩ませてしまいました。
「この人は、ビジュアルだけで自分の事を応援してるのではないか、と病んでしまいました。本当は、ステージ上で笑顔を振りまいているより、一点を見つめて真剣に伝えたいんです」
「僕はアイドルじゃないのに何を求められているんだろう。人に求められている事と、自分のやりたいことが違いました。みんなの希望に応えたい自分と、嘘をつきたくない自分との葛藤でした」
その音楽との葛藤を、さらに綴ります。
「嘘を塗り固める様な日々で、その時の自分が気持ち悪い」
当時の大雅さんは、小さい頃に憧れていた「感動を与える存在」から少し外れてしまっていました。
「なりたい自分」と「求められている自分」。
「本当の自分」と「嘘の自分」。
どちらを選べばいいのでしょうか。
「自分の作った曲を褒めてもらいたい!」
大雅さんは、本当の自分になる事を決意しました。
例えそれが、一時的にファンが減ろうとも。
「やっぱり、求められると嬉しいんです。そこにつけ込まれてしまいました。でも今は冷静に考えられるようになりました」
この決断をするのは難しい筈です。
それが出来ずに一生偽り続けてしまう人もいるでしょう。
大雅さんを、本当に尊敬します。
充電期間
先述しましたが、現在大雅さんは「充電期間」として、半年間ライブから離れると決断しました。
気になるその訳は、「お世話になっている方に音楽や人格までも全否定されました。けれど、それだけ本気で向き合ってくれたんだと前向きに考えました。『色んな事を経験しろ』とも言われ、少し休む事にしました」
「この期間に成長したい」と、マイナスというより、むしろプラスになる為のお休み期間のようです。
「一旦区切りをつけて、色んな事を経験したいです。社会人に戻って資金を蓄えたり、趣味を増やしたり。ボクシングや空手も習ってみたいですね(笑)」
ボクシングや空手!?
少し驚きました。
音楽以外でも、自分の興味がある事に挑戦するその好奇心には感服します。
「この期間で自分にしか出せないものを引き上げたいです。魅力探しですね。また違う自分を探せるのでは、と思います」
つまり、「音楽以外の魅力を引き上げる期間」という事のようです。
この期間が終わった時には、新しい大雅さんに出会えることを私達は心待ちにしています。
夢
大雅さんに最終的な夢を伺ったところ、「お茶の間で輝くことです」と嬉しそうに教えてくれました。
「最近ではテレビが落ち込んでいると言われていますが、やっぱりまだまだテレビには力があると思っています。紅白にも出てみたいです」
お茶の間で輝く。
小さい頃お茶の間から見ていた、画面越しのキラキラした芸能人達。
そして今度は大雅さん自身が、その画面の向こう側へ立とうとしています。
その道のりは、決して楽ではないでしょう。
しかし、私達のお茶の間を輝かせる為に、かつてそれが、とある少年に夢を与えた様に、大雅さんはこれからも葛藤しながら、音楽の道を歩んで行きます。
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音楽というコミュニケーション【アーティストインタビューvol.4大園真斗】
今回インタビューを受けて頂いたのは大園真斗さん。
彼は「シンガーソングライター」ではなく、「音楽家」。
「音楽家は、音楽全体をプロヂュースしたいという思いに一番最適な言葉だと思いました」
今回はそんな音楽家としての大園さんにお話を伺いました。
「歌を歌う人になりたい」
「父親を怖いと思っていて、全然話もしていなかった」
小さい頃、父親とは良好と言えない関係でした。
それでもただ一時だけ、会話をする時間があったそうです。
「父親が音楽を流している時は、父親の機嫌がよく、『いい曲でな』『うん』程度の会話はしていました」
普段話さない父親とは、音楽を通じたコミュニケーションをとっていたようです。
そんな事もあり、小さい頃から音楽というものを意識する様になりました。
「コブクロが好きで、小学校の時に『歌を歌う人になりたい!』と思いました」
そんな大園さんは中学校で吹奏楽部に入り、打楽器と作詞を始めたそう。
そして高校に上がるとギターと作曲も始めました。
「高校2、3年の時は自分で作曲した曲を、学校の定期演奏会で披露していました」
これは驚きです。
「先生がよかった・・・」と謙遜される大園さんですが、当時からその能力を発揮していたようです。
社会人となった今でも、働きながら音楽活動を続けています。
「本当は音楽メインでやりたいけど、今は資金を集めています・・・」
「自分のフィルターを通して思った事を言葉にする」
「作詞は自分のために作っています。誰かの為は得意じゃないです」
誰かの人生を100%知っているわけじゃない。
だから、100%知っている自分の人生というフィルターを通して、大園さんは曲を作っています。
けれど、そんな彼の曲は私達が思わず共感してしまう詞ばかりです。
「自分の為に作った方が、誰かに届く」
作詞をしている最中には既に音のイメージが浮かんでいるそう。
その音の中から自分にしっくりくるものを選び、歌を作っていきます。
「音楽が無意識に頭の中に流れてきます。それらを表現して、共感してくれたら嬉しいなと思っています」
そんな大園さんはツイッターやYouTubeを中心に活動しており、その言葉に共感してくれているファンも多くいます。
「こんな赤の他人にリアクションしてくれてありがたい・・・」
オンライン上のみの繋がりであるからこそ、その反応が嬉しいと語る大園さん。
電話越しからでも、ファンに対する感謝の気持ちが伺えました。
「作曲にはこだわっている」
作詞作曲の全てを一人でやっている大園さん。
それらに対する思いは想像以上にストイックなものでした。
「曲は全部一人で作りたい。その方が納得出来るし、追い込める」
詞を作る時はずっと考えているという大園さんは、その言葉の形でけでなく、意味の部分に注力しています。
「頑張れ!という言葉は、形式だけであまり意味がないので、好きじゃないです」
作詞作曲は楽しいですかと尋ねると、「楽しい反面、ポジティブじゃない歌詞の時は自分を追い込んでしまいます。どうやったら正確に伝わるのか」
伝える、という事にただならぬこだわりがある様子です。
それはドラムを叩く際も同様です。
「どうやったらこのドラムがイメージ通りに鳴ってくれるのか。ダメだったらダメな音がなる。音とのコミュニーケーションですね」
音楽を通せば楽器とも会話をする事が出来ます。
もちろん、他の人とも。
自分の言葉を、世界を、音楽として表現することには一切妥協を許さない厳しさ。
そこには、こだわりを超えた執念の様なものを感じます。
自分を音楽として伝えるという執念。
一体何が彼を音楽へと駆り立てるのでしょうか。
「会話が得意じゃない、言いたいことが言えない」
「実は、あまり会話が得意ではないんです。質問されると考えてしまって、一拍置いてしまうんです。コミュニケーションを取るのは楽しくもあるけれど、疲れてしまうんです。」
そう言われるまでは意識していませんでしたが、確かに応答までに少し間がある様にも感じました。
しかし、それは同時に適当な言葉に妥協せず、自分というフィルターで言葉を精査している様にも感じます。
続けて、そのフィルターから言葉が流れてきます。
「音楽を通して、現実では言えない思っている事を伝えたい。音楽は自分の考えをちゃんと出せる場所です」
それは、決してありきたりで、適当ではない、大園さんというフィルターを通った言葉です。
普段言えない頭の中で考えている事を、世の中に音楽を通して伝える。
大園さんにとって音楽とは、なくてはならない存在の様です。
「承認という夢」
「メディアに出て、より多くの人に自分というフィルターから出た言葉を共有したい」と語る大園さん。
その執念が彼を夢へと駆り立てます。
「自分の考えが間違っていなかったんだと、他人に認められたい。誰かに分かってもらいたい。だから、外に出しているのかも・・・」
承認。
これが大園さんの音楽に対する執念の正体でした。
大園真斗さんというフィルターを通して発せられる言葉は、音楽という形で世の中に語りかけていきます。
まるで彼の父親が音楽鑑賞を通して息子である彼に、少ないながらも語りかけていた様に。
彼の言葉に、彼の詞に、惰性はありません。
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アーティストインタビューvol.3・舟津真翔
今回インタビューを受けて頂いたのは舟津真翔さん。
15歳で単身上京し、現在17歳のシンガーソングライターです。
2018年11月4日には「Dreamer」でメジャーデビューを果たしました。
真翔さんのその夢想についてご紹介していきます。
「夢を与えられる人に」
3歳の時に「ゆず」を好きになり、それ以来ギターを始めたそう。
「夢を与えられる人になりたい」
表面的な理由などではなく、「感覚的に好き」な「ゆず」に影響され、夢を追い始めました。
11歳では「ゆず」の殆どの曲を引き語りできたんだとか。
その憧れの大きさが伺えます。
小学校ではサッカーをやっており、暫くギターを置いた真翔さんですが、小5の時に突然ギターに触れ出したそうです。
そのきっかけは、「運命かな・・・」
真翔さんはいつも理屈では始まりません。
音楽を始めた時も然り、それを再び始めた時も然り。
そして、この音楽に対する衝動力は、これから彼を更なる舞台へ導く事になります。
中学時、音楽の将来については「確信はなかったけれど、ぼんやりとはあった」という真翔さん。
卒業後、現在在籍する事務所の広告を見て、「これだ!」と思ったそう。
その感情に突き動かされ、東京へ話を聞きにいくと、その場で上京する事を即決したそうです。
15歳ながら驚異的な行動力。
これも運命なのかもしれません。
「音楽って凄い!」
真翔さんにとっての音楽を伺った所、いつもはクールな口調が解けました。
「音楽って凄いんですよ!素晴らしいんですよ!」
「言葉にするのは難しいけど、人生に欠かせない!!」
真翔さんの口からのその音楽に対する想いだけで、音楽が彼にとってどれ程重要なものなのかが、小難しい理屈を聞かずとも十分伝わってきました。
「Dreamer」はメジャーデビュー曲、真翔さんにとってもその思い入れは強い筈です。
「これは素直な気持ち、シンプルな自分の思い」
真翔さんはその思いを、その唄を、余計な言葉で飾る必要がありません。
感覚で動く人にとって、それは時折蛇足ともなり得ます。
「辛い事があってもそのままの姿で、変にカッコつけてもダメだし」
「挫折って思ってない」
一見、華やかな成功街道を突っ走る真翔さんにその苦労をお聞きしました。
「路上ライブ、初めは人が止まらなかった」
何でも最初は難しいもの、真翔さんは次第に路上ライブを「怖い」と思うようになっていったそうです。
「何で集まらないんだ。悔しかった」
しかし、SNSを中心として徐々にファンが増えていったそう。
今では通報される程人が集まります。
真翔さんはどんなに辛い事や、苦しい事があっても、「そのままの姿」で常にポジティブに考えているそうです。
そして、それを次へと繋げる。
年下ながらその強さに感服すると共に、彼こそ本物の「Dreamer」だと痛感します。
しかし、どこか弱い所を見つけてやろうと思うのが先輩ならではの意地悪です。
「ふるさとの空へ」という曲は上京した真翔さんの出身である島根県への思いを綴った歌です。
彼はまだ17歳。やっぱり寂しいですかと尋ねると、
「地元に帰ってから、こっちに戻ってきた時は1、2日少し寂しい。でも、周りの人が温かいので寂しくなく頑張ってます!」
ただ、「それも強がりかもしれないですけど・・・」
「夢は東京ドームでワンマンライブ!」
こうして真翔さんは吉凶禍福を経験しながら、着実に階段を上っています。
11月4日に行われた人生に一度のメジャーデビューライブ。
しかし、真翔さんはこれを「思い出」としては捉えていません。
あくまでも「スタートライン、いや、まだスタートラインにも立ててないかもしれません」と語ります。
そしてそのスタートラインは東京ドームへと続きます。
というのも、中2の頃、父親について行ったその出張先で東京ドームを見た時、「俺もいつかここで・・・」と思ったそう。
真翔さんはどれだけ階段を登ろうと、驕る事はありません。
「路上ライブで人が足を止めてくれる事は当たり前じゃないし、ファンがいてくれる事も当たり前じゃない」
そして更に、真翔さんにとってファンとは「頑張れる源」だと語ります。
もしかしたら、真翔さんのその強さの秘訣は単にメンタルの問題ではなく、ファンの存在があっての事かもしれません。
17歳で、夢が東京ドームだという真翔さんはまさに「夢想家」。
運命や衝動に導かれながら、その想いや夢を現実のものにするべく、進んで行きます。
それは同時に、私達に夢を見る喜びをも教えてくれます。