弾き語りの魔力【アーティストインタビューVol.6 大木大地】
松丸廉さんのご紹介でインタビューを受けて下さったのは、大木大地さん!
(松丸廉さんは、以前インタビューさせて頂きました)
廉さん曰く、「謎が多い」とのこと。
大地さんって、どういう人だろう・・・
今回はそんな大地さんをご紹介すると共に、その謎に迫っていきます!
弾き語りの力
「カラオケによく行くようになったのは、高校に入ってから。それまでは音楽に触れてもいませんでした」
そこで歌を歌う喜びを知ったという大地さん。
音楽への入り口は、カラオケでした。
「19歳の頃、友達にギターを教えてもらいました。音楽を聞いていくうちに『弾き語りって、ギターと歌だけですごい』と思うようになったんです。自分にも出来ないかな、と思うようになりました」
「弾き語りの力に魅せられました」と、力強く語る大地さん。
弾き語りとは、歌手自ら楽器による伴奏を行いながら歌うこと。
その力によって大地さんは、音楽に引き込まれていきました。
実は、大地さんは医療系の大学を目指して、2浪していました。
現在のイメージからすると、少し意外にも感じます。
大地さんの家系には医療系の職業に就いている方が多く、その影響で、大地さん自身も小さい頃から医療系に進みたいと考えていたそう。
しかし、「医療系の大学」の試験が難しいものであるとは、言うまでもありません。
「結局、試験は全部ダメでした。でも、医療への道をどこか諦めきれませんでした」
19歳から20歳の間、そんな気持ちを抱えながらも、大地さんは父親からギターを譲り受け、そこから本格的に音楽の道を目指し始めました。
音楽の専門学校も受験していた大地さんですが、結局そこには行きませんでした。
「20歳の時、オペ機材を扱う仕事をしていました。弾き語りでやっていきたいなと思いつつも、医療系もやりたいな、と思っていました」
そして2年後、大地さんはかつて受験した専門学校に通う友達と出逢いました。
「運命」という非科学的な用語を用いるならば、それは恐らく「運命の出逢い」とも呼べるしょう。
そこで大地さんは、「2年越しに専門学校に行きたいな」と思ったそうです。
22歳の時、大地さんは以前受験した所とは別の専門学校に行きました。
そこでは週1でオリジナルの楽曲を、プロデューサーとしても活躍していた先生に披露していました。
その楽曲を褒めてもらったり、時には厳しい事を言われたり。
「なんだか不思議な感覚でした。その学校に行くまでは、自分の部屋で一人で音楽をやっていました。そうしたこれまでの何もない環境で作っていたオリジナル曲が、間違いじゃなかったんだなと。その先生との出会いは大きかったです」
それまではほぼ独学で曲を作っていた大地さんですが、指導者と出逢った事で、自分のこれまでを肯定できたようです。
「間違いじゃなかった」という言葉には何か重みを感じました。
そんな素晴らしい環境で、大地さんは音楽のスキルを高めていったようです。
そっと飾り付ける額縁の様に
大地さんが曲作りで意識している事は、
「自分の気持ちを曲に入れています。ありがたい事に聞いて下さる方が居るので、自分だけの曲じゃないと思っています」
自分の曲を聞いてくれるファンの存在は一言でいうと、「エネルギー」だと語ります。
「聞いてくれる人が居なかったら、音楽ではないなとも思ってしまいます。自分が音楽をやる理由を与えてくれる存在で、常に感謝しています」
大地さんはとても謙虚に音楽やファンと向き合っている印象。
その音楽は、尖ったものというより、柔らかく優しいもの。
「自分の曲で人生を変えてくれっというものではないです。ライブに来てくれた方の一人一人の違う1日、そんな1日に自分はそっと飾り付ける額縁の様になりたい」
大地さんの曲は、私達の様々な一日を、例え絶望を感じる様な1日であっても、決して見捨てずに優しく包んでくれます。
「その人なりの感じ方や捉え方で。嫌な日でも、少しでもいい日になりますように」
その声からは、優しさが溢れていました。
音楽というアルバム
「根本の部分には、自分が経験してきたものが作品になっていきます。今日まで生きてきた証ですね」
音楽は、今まで生きてきた証。
辛いことも嬉しことも、それらの経験を音楽へと昇華させていきます。
「曲を見ると、その曲を作った当時の気持ちをアルバムみたいに思い出すんです。今とは全く正反対の事を思ってるなー、とか。ライブで歌っている時に、不思議と、曲を作った当時の気持ちが蘇ってくるんです」
それはまさに音楽というアルバム。
写真や文章、動画とはまた違う、思い出の残し方。
ライブなどで歌を歌う時、そこに居るのはその曲を作った当時の、大地さんです。
なんて美しい、思い出の残し方なのでしょうか。
そんな大地さんの、始めてからまだ2、3回目のライブで経験した、ちょっとした失敗談を聞かせてくれました。
「一曲目でギターの弦が一本切れてしまったんです(笑)。けれど、そのままの状態で2、3曲弾き続けました。『ん、切れてないですよ』という風にすまして。特に初期の頃だったので、ライブって怖いなと思ってしまいました。今でも弦は、きちんと確認します(笑)」
ファンの皆さんも、ライブで大地さんの歌を聞く時には、ギターの弦が切れてないか要チェックです!
仲間の存在
大地さんは専門学校を卒業後しましたが、26歳から1年8ヶ月もの間、長野県の山奥の旅館で働いていました。
これがいわゆる「謎が多い」と言われてしまった原因のようです。
一体何があったのでしょうか。
「2018年のライブでは、お客さんがようやく来てくれるようになりました。けれど、音楽を始めてから5、6年もの間、普段のブッキングライブ(ライブハウスやイベンターと呼ばれる人が企画するライブのこと)では、来てくれるファンは0人という状況が9割でした」
当時の大地さんの心中が、吐息の様に漏れました。
「悩ましかった・・・。楽しさが徐々に減って、ライブの意味もずっと分からずにやっていた。何の為にやっているんだろう」
「聞いてくれる人が居なかったら、音楽ではないな」という先程の大地さんの言葉を、反芻しました。
聞いてくれる人があまり居なかったという当時の大地さんは、自分の音楽に対する意義を見失ってしまいました。
「そういうのもあって、行き先を決めずに旅行へ行ったんです。考えを見直す為にも。もう音楽はやらなくていいんじゃないか、とも思ったり」
その旅行先で、先述した長野県の旅館に辿り着きました。
そこでは、一番近いコンビニへ行くのに50分もかかったそう。
今までの都会での生活とは、程遠いものでした。
「『何でそんな所に行くの?早く戻って来なよ』と周りからは不思議がられました」
それもそのはず。
知り合いが突然田舎の旅館に住み込みで働くと言い出したら、大抵その様な反応がくるでしょう。
けれど、大地さんの意思は固いものでした。
「違った環境に行けて良かったと思います。そういった自然の中にいる時に、作った曲も多いです。なにより、自然の中で歌ったりして気持ちよかった」
大地さんは当時の思い出をそう回顧します。
一見「謎」と捉えられてしまいますが、大地さんにとってそれは貴重な経験でした。
「長野県に居た当時から、松丸廉くんがライブに呼んでくれました。本当にありがたかった」
長野県にいる間でも、ライブに呼んでくれる存在が居ました。
そんな時は年に数回だけも、ライブの為だけに上京したそうです。
松丸廉さんの様な存在は、悩んでいた大地さんにとって大きな支えとなったはず。
どうやって、「その悩ましい」状態を乗り越えましたか、と聞くと、
「乗り越えたというより、周りの人達の肩を借りながら、乗り越えさせて頂いたという感じですね。仲間に助けられました」
その時、大地さんの会話の相手は、もはや私ではなくなっていました。
心を込めて、ただ率直に。
「手を差し伸べてくれて、本当にありがとう」
シンプルな語り
「弾き語りというスタイルで、日本武道館でライブをしてみたい!」
弾き語りという魔力に導かれ、大地さんの夢は日本武道館。
その大きなステージ上で、その魔力をより多くの人に放ちます。
けれど、そのステージ上の大地さんはきっと一人ではないはず。
歌っている曲を作った当時の自分。
ライブに来てくれるファン。
困った時には手を差し伸べてくれる仲間達。
その夢への道のりで、もしまた心の弦が一本切れてしまったとしても、大地さんの仲間達がきっとまた手を差し伸べてくれる事でしょう。
弾き語りであっても、大地さんはもう一人ではないはずですから。
大木大地さんの
youtube https://www.youtube.com/channel/UC6jJW5yfBDtqQ-arqLGD_HQ …